信頼性というモデレーター

ハイプサイクルでは「信頼」がキーイシューになっている(ここでの信頼はデータに関するもの)。その以前から、未来予測などでは、信頼性はトップイシューといえる。

2019年2月18日放送クローズアップ現代で政府が発表するデータが信頼できるかどうかに関しアンケートが実施され、その内容が紹介された。信頼できると回答したのは僅か5%であった。関連する様々な事実がそのような回答を導いた。今でも政府による数字の忖度は度々報告されている。

大企業による不正も後を絶たない。橋梁補強といいながら実際は手抜きであった。命にかかわる。大学入試にも不公正が発覚し人の人生を狂わすことになった。

信頼が欠如した社会では安全が必要となり、結果、社会コストを増大させ、生活者の生活を逼迫させる。例えば、街中に監視カメラを置くようになれば、そのコストは住民が負担する。

取引相手が信頼できるまでは分厚い契約書、全品検査そして高い弁護士費用に備えなくてはならない。

これが良い社会かどうかは個人によって異なると思うが、根底にあるのは倫理観である。

人は生理的そして安全の欲求が満たされないと倫理を超えた行動に出ることがある。経済の安定と成長は、生活の安心に繋がる。

(宮川 雅明)

01の発想

事業開発のコンサルティングを20年以上経験させていただいている。既存事業からスピンオフするものもあれば、外部環境から発想するものもある。

戦略の基本は、外部環境の追い風に乗ることと、強み(内部環境)を活かすこと。この掛け合わせである。

しかし、強みを活かすことだけに注力すると発想が行き詰まることがある。どうしても既存の成功体験に影響を受け、リニアな発想をしてしまう。コンピテンシートラップである。

Exploitation(深堀)も大切であるがExploration(探索)も重要である。昔、師匠がいった「深堀りするのには幅がいる」。

外部環境を眺めながら理想の或いはこんなことができたら面白いというものが出てくる。

河野豊弘氏(1922年-2014年元ピッツバーグ大学名誉教授、学習院大学名誉教授)は著書の中で、「新しい組み合わせをつくる能力としての新しい角度から見る能力(フレキシブル)と、たくさんのアイデアを生み出す能力(フルーエンシー)が重要だとしている。そのためには連想の能力や類推(アナロジー)の能力が必要」と指摘している。

類推が創造性の基本であるというのは他論文でも観られる。まあ、ざっくりいうと世の中を観て、街を歩いて、事実を集めながら多様な視点で眺めてみる行動力と好奇心が大切ではないか。

先にも触れたが、新規事業には直観というかセンスのようなものが求められるのではないか。

河野先生の阿佐ヶ谷のご自宅、研究室でのお姿が懐かしい。

(宮川 雅明)

実行できない理由は経験がないから

計画を立てても、多くの議論を積み重ねても何故か実行できない。その理由はシンプルで、経験がないからである。

D.A.コルブの経験学習理論でいうなら、経験を通じて抽象化し、内省をした上で積極的行動に出ることが学習サイクルとされる。

昔、師匠が言った。「理解と納得は違う。言葉は理解しても、自身の経験と照らし合わすことができたら人は納得して頷く。そうだそうだと。しかし、臨場感の無いものはイメージが湧かない。だから本当は理解していない。疑似体験でもあれば、それに照らし合わせイメージを掴むことができる」。

コンサルタントとして事業開発に20年以上携わっているが、やったことがある範囲でしかやろうとしない。或いは、他のこと(多くは日常業務で緊急性の高いもの)を理由にやろうとしないか、ほんのちょっとだけ報告書をいじるだけで終える。

行動を変えない限り結果は変わらない。

リスクを取って新たな行動に挑戦する勇気がなければ結果は変わらない。

近頃は上手く言い逃れて、斬新な奇抜な情熱的な行動を取る人はあまり見ない。平和になりすぎたのか。情熱を傾けるもの、好奇心がないのか。

VUCAの時代、問われているのは新たなことに挑戦すること、行動することである。

(宮川 雅明)

直観

先日、ある経営者にお会いした。論理的でないと周りから御叱りを受けていて悩んでいるという。

経営者或いは企業者において直観の重要性は古くから指摘されている。1979年「経営構想力」大河内暁男は企業者の能力の第一は直観と指摘している。

昨今(2009年)では、Gerd Gigerenzerは“不確実性が高い環境においては、直観の方が論理思考より正確な将来予測をする。”と結論づけている。

Effectuationにおいても同様のことが指摘されている。

そもそも過去に例のないことを考えるのだから、論理的に詰めたらやめた方が良いということになる。しかし、過去に例のあることをやった瞬間に差別性は無く、コモディティ化する。

そんな話をしたら、「こんなに気持ちがいい日は久しぶりだ」といって玄関まで見送っていただいた。

若い人は論理的に考えた方がよいが、年長者は直観に頼って良い。脳のメカニズムでもそのようだ。

(宮川 雅明)

先達への感謝

私は既に高齢者の仲間入り。ニューヨークで起業する以前より海外での活動の機会を頂いてきた。

何よりも驚くのは、海外における日本人ビジネスへの対応である。様々なことはあるが、仕事への態度、品質への責任、相手への礼儀など日本人ビジネスへの評価は極めて高い。

高度成長期を経験していい時代でしたよね、と思っている方も多いと思うが、どれほど団塊世代以上ががむしゃらに働き、裸足でリヤカーを引いた戦後日本を支えてきたかを忘れはいけない。高齢化社会というと殆ど良いイメージはない。むしろ邪魔者扱いにされる雰囲気さえ感じる。

近頃は働き方改革とか、ちょっと指導するとパワハラとか指摘されるらしい。私のつたない経験では、指導といういうより強制に近い指導であり、問答無用であった。しかし、愛情に満ちていた。君たちに将来の日本を任せるぞ、という気概をひしひしと感じたものだ。働き方とかパワハラとか安易に言う前に、仕事があることに先ずは感謝する心を持って欲しい。

何故、問答無用なのか。それはいってもわからないから。経験がないものはわからないし、できない。守破離(序破離とか言い方はいろいろ)というのがある。人が育つプロセスである。先ずは真似る。定石を覚える。日本の伝統芸能の殆どは真似ることから始める。楽譜もない、マニュアルもない。ある落語家は「盗もうとしない弟子には何も教えない」。教わっていません、聞いていません、マニュアルにありません云々は素人か未熟者の小理屈ではないか。

破は真似たものを、定石を使いこなす。使いこなすこともできずに、勝手にやることを形無しという。型破りとは異なる。

ネットが普及したおかげで何でもかんでも答え探しをする。私の育った組織では、下手に質問をすると怒られたものだ。師匠が言った。「質問をする前に、お前はどう思う。仮説をいってみろ。」「考えろ。仮説をもって聞くことで、気づきがある。気づきの無い学習は身にならない。」

もう少し先達が残した財産を大事にした方が良い。物事の本質に触れることができる。

(宮川 雅明)